北欧デザイナーについて②
皆様こんにちは😄
お待たせいたしました。
ハンスJ・ウェグナーのコペンハーゲン編です。
まずは前回のおさらい
お話はコペンハーゲンに拠点を移してからですが、
日中の美術工芸学校での教職と夜間のヨハネスハンセンでの工房作業のスタートです。
ウェグナーはデザイナー兼職人だったため、製作しながら試行錯誤し、
イギリスのウィンザーチェアをリデザインした、ピーコックチェア(JH550{PP550})を1947年に発表します。
『ウィンザーチェアー』
『ピーコックチェア』(JH550)(PP550)
ちなみにピーコックって知っていますか?
『クジャク』です。クジャクのオスが、羽を広げた姿に似ていることでそのように言われております。
名付け親はフィンユールなんです。
すごい時代です😱
1949年
前回もご紹介しましたが、CH24、JH501が発表されます。
『CH24』
『JH501』
その後は、
1950年にアメリカの雑誌でデンマーク家具の特集記事が紹介され、
1954~1957には『Design in Scandinavia 』展といわれる
スカンジナビア半島のデザイン展示会が北米を巡回し、
北米での知名度がいっきに上がります🇺🇸🇨🇦
1960年のアメリカ大統領選挙でのテレビ討論会でJH501が使用されたことでも有名になりました。
アメリカからの大量の注文にヨハネスハンセンの職人5、6人では対応しきれなかったそうです😅
1951年には『サレスコ』と名付けられた5社からなる組織が
それぞれのメーカーの得意な分野でウェグナーの家具を製造していきます。
『サレスコ』での家具は量産的な生産を前提としています。
ヨハネスハンセンでは家具職人による手加工による生産方法のため、
それぞれ各メーカーや工房の特徴、得意分野を活かしたデザインを
おこなっていた、ウェグナーの凄さがわかりますよね😄
1966年にヨハネスハンセン工房との協力関係が
ギルド展と呼ばれる、家具の展覧会が終了したことで、
なくなっていきます。
1968年には、『サレスコ』との協力関係も解消されます。
そして最後のパートナーとなるのが『PPモブラー』という工房です。
手加工と機械加工のバランス、職人技と量産的な部分のバランスが
ウェグナーの価値観とマッチしたと言われています。
ウェグナーが引退する93年まで
『PPモブラー』とウェグナーの関係は続いていきました😁
ウェグナーは『人生でたった一脚のよい椅子をデザインできるか・・・
いや、それは到底無理な話だよ』という言葉を残しています。
ウェグナーの人生が凝縮されている気がしますね😭
ブログを書いているうちに、自分の人生を問われている気がしました😠
人生を懸けてもまだまだ満足などできないということですね。
以上です。
長くなってしまいましたが、最後までお読みいただきありがとうございました。
次回もお楽しみにお待ちください🎵